1982年、ソーホーの大手画廊トニー・シャフラジでのデビューで、キース・ヘリングは一気にニューヨーク・アートシーンに名を連ねることになりました。画廊のオープニングには、4,000人もの人が押しかけ、巷を騒がせるほどの大盛況でした。観客にはヘリングのクラブ仲間やグラフィティライター、ストリートアーティストたちだけではなく、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ソル・ルウィット、リチャード・セラ、フランチェスコ・クレメンテなど、一世を風靡する高名なアーティストたちの顔もありました。
ストリートから画廊デビューを果たした、わずか24歳の若者が世界に踊り出た瞬間でした。
ヘリングは勢力的に作品制作をしながら、ニューヨークのクラブカルチャーにも没頭します。当時熱狂的な盛り上がりを見せていたクラブ〈パラダイス・ガレージ〉*に通い始めます。客層は黒人やヒスパニック系が9割を占めるという独特なクラブで、DJの神様と呼ばれたラリー・ル・ヴァンも演奏をしていました。ヘリングはこの異国的な空間に取り憑かれたように5年間、毎週土曜日に通い詰めたのです。
1983年春、イースト・ヴィレッジにオープンしたファンギャラリーでの個展で、遂にアンディ・ウォーホルと出会います。まだ駆け出したばかりのヘリングにとって、ウォーホルは絶大的な存在であり、最も尊敬するアーティストの一人でした。
「アンディに紹介されたとき、ぼくはすっかり畏まってしまって、ひとことも口が利けなかった。でもアンディがすぐにぼくの気分をほぐしてくれたので、その日からあと、ぼくらはほんとうに良い友人同士になった。」**
この出会いから、親子ほど年が離れた二人の交友関係は始まりました。ヘリングはウォーホルのファクトリーに出入りするようになり、共同制作を取り組むまでになったのです。当館にも収蔵されている版画シリーズの《アンディ・マウス》は86年に発表されました。
これはヘリングが幼い頃から好きだったディズニーのミッキー・マウスと、最も尊敬するウォーホルとを融合させたものです。作品に描かれた、アンディ・マウスとドル札からは、資本主義社会に対する皮肉を捉えることができます。ウォーホルがサインをした本作品は、世代を超えた貴重なコラボレーションとなりました。
1983年、ウォーホルと出会った同年にイースト・ヴィレッジによく出入りしていたマドンナと出会います。マドンナが驚異的な成功への道を歩みはじめたばかりの頃です。マドンナは黒人やヒスパニック系の人種が集まる〈ファン・ハウス〉というクラブで、パフォーマンスをしていました。二人は意気投合し、〈パラダイス・ガレージ〉をはじめ、流行りのクラブにあちこち顔を出すようになり、互いにパーティーを開くような仲になりました。
1984年5月4日。26歳の誕生日には自ら〈パーティー・オブ・ライフ(人生最大のパーティー)〉を〈パラダイス・ガレージ〉で開催します。マドンナのパフォーマンス、ラリー・ル・ヴァンによるDJプレイ、空間には自らドローイングを施した、一大アートイベントとなりました。ヘリングはマドンナにまだ発売前の〈ライク・ア・ヴァージン〉を歌ってもらうよう依頼します。そしてマドンナが衣装として当日着用するジャケットに絵を描きました。会場となった〈パラダイス・ガレージ〉は通常週末のみにオープンしていたところをヘリングの誕生日に合わせ、水曜の夜に特別にパーティーが開催されました。ウォーホルの影響もあり、美術界だけでなく、ダイアナ・ロスなど多くのセレブたちが集まり、週日の夜にもかかわらず、3,000人もの人がヘリングのバースデーを祝ったのです。
ヘリングは招待状として、〈毎年恒例人生最大のパーティー第1回目〉と書いたハンカチをデザインしました。
当日にはパーティーのために特別に作られたTシャツが配られるなど細部に及び、ヘリングが企画したこのパーティーは、クラブシーンを超えた一大センセーションを呼び起こしたのです。
(本記事は「東京レインボープライド」からの転載記事です)