僕は昔から、”ゲイっぽく”振舞わないように気をつけていた。
それでも中には、僕がゲイであることに気づく人もいたけれど、大抵はバレなかった。だから僕がゲイだとカミングアウトすると「ゲイに見えないね」と反応する人がいて、僕はそう言われるたびに嬉しい気持ちになっていた。僕は単純に彼らの反応を「男らしい」という褒め言葉として受け取っていたからだ。今振り返ると、当時の僕の考え方はとっても恥ずかしいけど、僕は本当にそう考えていたんだ。
なんで恥ずかしいかって?
これから紹介するトニーの書いたコラムを読んだら分かるだろう。「ゲイに見えないね」という言葉が褒め言葉かどうかわからない人は必読だ。
僕は、決して男らしい男ではないけれど「男らしいね」と”褒められる”ことがある。
ゲイ男性として生きていると、自分がそうであるかに関わらずゲイであると言うだけで「極端に女性っぽい」「ファッション好き」「買い物好き」「ポップカルチャー好き」などたくさんのステレオタイプが付いてくる。でも、最初に聞きたい。
「それの何が悪いのだろうか?」
正直に言うと、僕が「男らしい」と言われる原因は、決して誇らしいものではない。僕の”男らしい”振る舞いは、小中高と公立の学校を生き抜くために、環境に同化するために、死に物狂いで努力して身につけたものだからだ。
僕の大げさな身振り手振りや歩き方、服の好みや笑い方…一つ一つの動作を”治す”ため、僕は振る舞いについて友達に指摘されるか自分で気付く度に、一番”男らしい”クラスメイトの動きを必死に覚えて、家に着くなり鏡の前で何度も何度も練習した。
僕が「学生時代に異常なことをしていた」と気付いたのは、高校を卒業して何年も経った、ニューヨークに移り住んだ数年前のことだった。
ニューヨークに引っ越してから、僕は自分らしく生きられるようにそれまで長い時間をかけて身につけた振る舞いを意識的に取り払い始めた。
でもどんなに時間をかけて努力をしても僕は未だに自分らしく振舞うことに慣れない。人が僕のことをどう見ているか気になって仕方がないのだ。
「ニューヨークにいるんだから自分らしく振舞って大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、通りを歩く心ない人に「ホモ野郎」と声をかけられてしまったら最後、その瞬間に僕は十代の頃に身につけた、自分らしさをズタズタにした”男らしい”振る舞いにとらわれてしまうのだ。
シスジェンダー(心と体の性が一致している人のこと)の友達遊んでいると、よく彼らに僕の”男らしさ”について褒められる。彼らは、ステレオタイプのゲイと比べて僕が”男らしい”ということを褒めているのだ。褒め言葉の裏に隠れているメッセージは「トニーはアイツらと違うよな。俺らの「仲間」だよな」ということだろう。
彼らは、自分と違うものに直面しなくていいように僕のことを「仲間」として引き込もうとしているのだ。でも僕は決して「仲間」ではない。アイツらなのだ。僕は彼らがバカにする、違うものとして扱う、アイツらなのだ。
今、僕は以前より”男らしく”振舞うことにとらわれていない。年齢とともに成長したからだろう。でもやっぱり、男性のグループ、”男らしく”振舞う人たちを見るたびに息が詰まりそうになって、自分の身振り手振りに意識が過度に集中してしまう。
僕は、これからも”男らしさ”と”自分らしさ”の狭間で、”過度な男らしさ”を賞賛し、”女らしさ”を弱さと切り捨てる異性愛を前提とする社会の中でもがきながら生きていくのだろう。
確かに僕は異性愛を前提とする社会に適応できる振る舞いを身につけ、女性らしい振る舞いを押し殺すことができたからゲイとバレずに生活してこられた。
でも、少し考えて欲しい。それは果たしていいことなのか?そしてなぜ、男性の中の”女性らしさ”が蔑みの対象になってしまうのか?