ミシェル・ド・モンテーニュとエティエンヌ・ド・ラ・ボエティー
ルネサンス期のフランスを代表する哲学者ミシェル・ド・モンテーニュの生き方についての著書「エセー」は、後にシェイクスピアの「テンペスト」で引用されるほど高く評価された。
モンテーニュは政治理論家エティエンヌ・ド・ラ・ボエティーと1557年ごろボルドーで知り合い、4年の時をともに過ごすが、ボエティーは1563年にペストで亡くなってしまう。モンテーニュは後に「こんな愛は二度と訪れない」と記したという。なお「エセー」の主題は”友情”についてだそうだ。
フィリップ・シドニーとヒューバート・ランゲー
ある歴史家によると、エリザベス朝のイングランドの廷臣フィリップ・シドニーとフランスの外交官ヒューバート・ランゲーは、危険な時代に出会ったという。
というのも、ランゲーは近世フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)であるユグノーの積極的な支持者で、ユグノーはフランス王権やカトリック勢力との争いごとが絶えなかった。
ユグノーの大虐殺を受けてフランスを離れた二人は、フランクフルトやウィーンで平穏な日々を送ったと言われている。シドニーは後にヴェネチアで働くことになるが、二人は手紙のやりとりを続けたそうだ。ランゲーはシドニーに「君は僕に恋の魔法をかけた」と記したラブレターを送っている。
マルク=アントワーヌ・ミュレとメンミウス・フレミオー
中世においては「The city of love(愛の街)」と呼ばれるパリですら、人文主義者マルク=アントワーヌ・ミュレのゲイロマンスを受け入れるほど寛容ではなかったようだ。
ミュレは、メンミウス・フレミオーという男性と出会いすぐに親しくなったが、それが原因でソドミー法違反の容疑にかけられてしまう。裁判を避けるために、二人はそれぞれ別の都市に逃げ、その後も愛のやりとりを続けた。
ヴェネチアに逃げたミュレは、後にローマ大学で”プライベート”が守られることを条件に教授職に就いたという。
ウィリアム・シェイクスピアとH.氏
シェイクスピアが生きていた時代に出版された詩集は、謎に包まれた男性W.H.氏に捧げられている。
多くの学者は、W.H.氏は作中に登場する「紅顔の美少年(fair youth)」のことではないかと推測している。最初の77つの詩には、性的に露骨な表現はないが、後半の詩では「ダーク・レディ」と呼ばれる愛人への愛が歌われている。
シェイクスピアは、詩集に”許されぬ欲望”を数多く綴っているが、真相は謎に包まれたままである。
ジェームズ6世とジョージ・ヴィリアーズ
17世紀にイングランドとスコットランドに平穏をもたらしたスコットランド・イングランドそしてアイルランドの王ジェームズ6世は、男性とのゲイロマンスを楽しんだ人物としても有名だ。
特に有名な相手は、初代バッキンガム公爵のジョージ・ヴィリアーズだ。
ジェームズ6世が好んで使用していたアペソープ宮殿の修繕の際には、ジェームズ6世の部屋から男性専用のベッドルームへと続く隠れ通路が発見されている。ジェームズ6世はジョージ・ヴィリアーズとの恋愛関係をキリストとヨハネの関係に例え、世間からの非難や嘲笑に耐えていたという。
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